PROLOGUE
えー、古畑任八郎です。
いよいよ最後のお話となりました。
これまで私は、犯人の顔を最初から知っていました。皆さんも知っていた。倒叙ものですからねえ。
ですが最後くらい、少しだけ意地悪をしてみましょう。
今回、犯行は最初に起きます。ただし、犯人の顔だけはお見せしません。
犯人が誰か。それを私と一緒に考えていただきます。
そして最後に解くのは、事件だけではありません。
私自身の、本当の顔です。
THE CRIME
深夜十一時四十二分。非常階段側の古い通用口から、一人の人物が編集部へ入った。
正面入口はとうに施錠されている。だが、この建物をよく知る人間なら、夜でもここから出入りできた。
戻ってきた目的は一つ、朝になる前に、共有フォルダから〈ザレゴト制作委員会〉を消しておくこと。
そのために、USBへ移して持ち出す。それだけのつもりだった。
誤算だったのは、編集部の奥に明かりがついていることだ。“彼” は通用口の陰で足を止めた。
「帰ろっかな~。いや、あと一個だけ~」
デン太郎だ。まだ残っていたのか。そんなことを思った刹那、モニターに映る文字に、“彼”はぐっと息を呑む。
〈ザレゴト制作委員会〉
あろうことか、デン太郎はフォルダを開いた。
中には五つの企画書が入っている。
『狂気の編集者』
『あなたはダレ』
『カジノの守り神』
『地下帝国の教祖様』
『古畑任八郎最後の戦い』
案の定、デン太郎は面白がるように、一つ目から順番に開いている。お前、知らないフォルダやファイルは開けるなって口を酸っぱく教えて来たじゃないか。
「あれ、僕がいる」
デン太郎は、企画書に自分の名前が書かれているのを見て、首を傾げた。
まずい、これは非常にまずい。特に、五つ目のファイルは一番まずい。
「どうしようかな、時間も遅いし、先に五つ目のファイルを見ちゃおうかな」
なんでだよ、資料は順番通りつぶさに読めって、いつも言ってるだろ。そういう横着するから、ドパガキとか呼ばれるんだよ。もどかしさで胸がいっぱいになった。
しかし、それどころじゃない。どんな手を使っても、これ以上読ませるわけにはいかない。“彼”は、そろりそろりと、彼に近づいていく。
〈深夜十一時四十二分。編集部に残っているのは、デン太郎一人だった。〉
その文字を目にしたデン太郎の肩が跳ねる。次の瞬間、彼は、腕時計を確認した。
二十三時四十二分。
「……やだなあ、こういうの」
そう言いながら、さらにスクロールすると〈背後で、靴音がする。〉という文字が現れた。
デン太郎は、恐る恐る振り返る。すぐ後ろまで近づいていた“彼”の姿が視界に飛び込み、びくっと身体を震わせた。
「……先輩?」
“彼”は答えない。
「これ、何なんです? ザレゴト制作委員会って」
「見たのか」
「見えちゃったというか。鍵かけてない方も悪いですよ~」
「閉じろ」
「もう読んじゃいました」
「忘れろ」
「無理ですって。僕こういうの気になるタイプなんで」
やはり、そう言うと思った。“彼”は、距離を詰める。
「せ、先輩。おかしいですよ」
「おかしくない」
「目が、いっちゃってます」
「寝不足なんだよ」
そう言い放つや、“彼”は手を伸ばした。しかし、デン太郎もただではやられない。反射的に“彼”の胸元を掴み、ぐいっと引っ張った。
カチっと、何かが小さく外れたような音がしたが、もみ合う二人には、その音は聞こえない。
“彼”は、机の上の文鎮を見た。一度黙らせるしかない。思い切り手を伸ばし、文鎮を手に取った。
「ちょっと。シャレで済まない持ち方ですよ」
そんな言葉もむなしく、“彼”は、文鎮を思いっきり振り下ろした。
ゴン。
デン太郎が床へ崩れ落ちる。
「……デン?」
しゃがみ込み、首元へ指を当てた。脈はある。
“彼”は、ホッと安堵した。しかし、今はこいつをどこかに隠しておかなければならない。
ずりずりとデン太郎を資料室へ運び、鍵を掛けた。
編集部へ戻り、〈ザレゴト制作委員会〉のフォルダをUSBへコピーし、削除する。
ごみ箱も空にした。
上出来だ。これ以上ここにいる方が危ない。
USBを握り、立ち去ろうとした時だった。
モニターには、さっき開いた最終稿がまだ残っている。
画面の一番下に、一行だけ表示されていた。
〈犯人は、古畑任八郎に見つかる。〉
人物はしばらく、その文字を見た。
「知るか」
ファイルを閉じる。
誰もいない廊下に、靴音だけが残った。
RETURN
古畑は、冥府から現世へ続く奈落を、まだ落下していた。
閻魔代行のしらすは「一瞬で済む」と言っていたはずだが、奈落の底はいっこうに近づいてこない。上も下もない暗闇の中を、身体だけがどこかへ運ばれている。高所恐怖症にとって、終わりの見えない落下ほど趣味の悪いものはなかった。
「しらすさーん。これ、一瞬の定義がだいぶ違いませんかー」
返事の代わりに、頭の上へ何かが落ちてきた。ぽふ、と柔らかいものが後頭部に当たり、そのまま肩へ転がる。
「わく」
「あなたまで来たんですか」
わくわくは楽しそうに古畑の肩へしがみついた。冥府で人の顔も感情も削り取った、あの白い生き物である。可愛い顔をしているが、扱いを誤れば金やすりより、たちが悪い。
「お願いですから、落ちている最中にすりすりしないでくださいよ」
「わく」
素直なのかどうなのか分からない返事を聞いたところで、ふいに風が止んだ。落下の感覚が消え、次の瞬間には靴の裏へ硬い床の感触が戻っている。
古畑は恐る恐る目を開けた。そこは病院の廊下にも、役所の待合にも似た、白くて殺風景な場所だった。壁には小さな札が掛かっている。
〈送還前照合〉
「……冥府にも乗り換えがあるんですねえ」
「ありますよぉ」
聞きたくない声が、廊下の奥から返ってきた。
黒いスーツに黒いシャツ、サスペンダー。そこまでは見慣れた格好だが、頭だけがモヒカンの犬になっている。古畑任犬郎は、まるで待ち合わせに遅れてきた知人に苛立っているようにも見えた。
「やっと戻ってきましたねえ、古畑任八郎さん」
古畑は盛大に肩を落とした。
「私、これから現世へ帰るところなんです。逮捕なら後日にしてもらえません?」
「今日は逮捕じゃありません~。照合ですぅ」
「照合?」
「あなた、本人確認が通ってないんですよぉ」
本人確認。その言葉で、古畑は朝の病院を思い出した。受付でも処置室でも病室でも、顔を見れば分かるだろうと言うたびに名前と生年月日を聞き直された。まさか一日の終わりに、あのやり取りが冥府で蒸し返されるとは思わない。
「顔を見れば分かるでしょう。古畑任八郎です」
「顔だけでは確認しません~」
古畑の目が細くなる。
「その台詞、今日は何度聞いたことか」
任犬郎は古畑と同じように人差し指を立てた。仕草まで似せられると、腹立たしさが一段増す。
「冥府ではですねえ、名前と顔、記憶、それから魂の輪郭まで重ねて本人を確認しますぅ。私はもともと、その照合を担当していました~」
「警察官じゃなかったんですか?」
「地上で人を連れてくるには、警察官が便利ですからぁ」
「便利という理由で名乗っていい職業ではありません」
古畑はそこで、ずっと引っかかっていたことを思い出した。カジノで任犬郎が捕まえたのは、自分だけではない。ゲンズも、あかりも一緒だった。それなのに地下へ着く頃には、三人はばらばらにされ、任犬郎は古畑にだけ妙なことを言った。
あなたをここへ連れてくるのが仕事ですから。
「ひとつ教えてください。どうして私なんです?」
犬の顔が、わずかに傾いた。
「ゲンズさんとあかりさんは、ついでですか?」
「言い方が悪いですねえ」
「では、巻き添え?」
「もっと悪くなりましたぁ」
「偽物の警察手帳も、本当の理由ではなかった」
任犬郎はしばらく黙っていたが、やがて古畑の顔をまっすぐ見た。
「手帳は、地上であなたの身柄を押さえる理由です。私が最初から見ていたのは、あなただけですよ」
「なぜ?」
「合わないんです」
「何が?」
「あなたが」
任犬郎の声から、いつもの粘つくような古畑の真似が消えた。
「顔は古畑任八郎。名前も古畑任八郎。記憶を辿っても、本人のものとしてつながっている。なのに、もっと奥にあるものだけが合わない。別人の輪郭が、重なっている」
「輪郭と言われましてもねえ。私、今日は朝からずっと私なんですが」
「私にも、それ以上は分かりません。だから、冥府へ運んで照合し直すつもりでした。まさか照合区画の手前が、あんな宗教団体に占拠されてるとは思いませんでしたが」
「ずいぶん大きな見落としですねえ」
古畑の足元で、わくわくが任犬郎を見上げた。さっきまで落下を楽しんでいたのに、急に静かになり、丸い身体を低くする。
「わく」
任犬郎が半歩だけ後ろへ下がった。
古畑は見逃さない。
「おや。あなた、この子が怖いんですか?」
「怖くないです」
「下がりましたよ」
「下がってないです」
「半歩」
「細かいな」
「刑事ですから」
古畑がしゃがむと、わくわくは待っていましたとばかりに近寄ってきた。頭を撫でるふりをして、古畑は任犬郎の方へ指先を向ける。
「わくわくさん。あの方、何か被っているみたいです。顔そのものはやめて、上に乗っているものだけお願いできます?」
「わく!」
「待て、それは業務用の顔だ!」
逃げようとする任犬郎。しかし、わくわくが飛びつく方が早かった。
すりすり。
「ウワーーー! やめろーーー!」
すりすり。
犬の頭が、紙を何枚も重ねたように薄く削れていく。モヒカンが消え、長い鼻が消え、古畑そっくりだった眉の動かし方まで、表面から剥がれ落ちるように落ちていった。
その下から現れたのは、ごく普通の人間の男。黒いスーツだけが、そのまま残っている。
「犬ではなかったんですねえ」
男はわくわくから距離を取り、削られた頭を両手で確かめた。
「俺は、かつおだ」
「初めまして、かつおさん」
「古畑任犬郎は仕事をするための役だったのだ。地上であんたを追うなら、警察官の顔を被った方が話が早い。ついでに、追う相手に寄せておけば、見失いにくい」
「だから私の真似を?」
「真似じゃない。役作りだ」
「ものは言いようですねえ」
かつおは少し苛立ったように鼻を鳴らしたが、すぐ古畑へ視線を戻した。
「俺は、自分の意思で任犬郎を被っていた。あんたは違う」
「何が違うんです?」
「あんたは、自分が何を被っているか、知らない」
軽口を返そうとして、古畑はやめた。かつおの顔には、からかっている色がない。
「では、その下には誰がいるんです?」
「知らない。俺に分かるのは、不一致だけだ」
かつおはわくわくを見る。
「ただ、その生き物なら、もっと深いところまで削れるかもしれないな」
「やめてください。朝から十分削られてます」
「顔の話じゃない」
古畑は答えず、わくわくをそっと自分の背中側へ隠した。白い身体が半分くらいはみ出しているので、隠している意味はほとんどない。
かつおは壁際の端末へ向かい、何かを操作した。画面に古畑の名前が出たあと、赤い文字が点滅する。〈照合不一致〉。続いて、〈仮送還〉という表示に切り替わった。
「本人照合が通らない以上、登録住所へは返せない。こういう時は、現世側で本人と最も強く結びついている場所へ仮送還する決まりになっている」
「私と強く結びついている場所?」
「どこになるかは、向こうが決める。俺にも分からない」
「家であることを祈ります」
「たぶん無理だな」
「どうしてそういうこと言うんです?」
かつおが端末の決定ボタンを押すと、古畑の足元が白く滲み始めた。
「ひとつだけ覚えておけ。次に目を覚ました場所は、古畑任八郎ではない、あんたの奥にいる誰かと強く結びついた場所だ」
「意味深ですねえ」
白い光が視界を埋める直前、わくわくが古畑の足へしがみついた。
「わく!」
「あなたは帰る場所、あるんですか?」
返事を聞く前に、床も壁もかつおの顔も、すべて真っ白になった。
ARRIVAL
古畑が目を開けると、目の前に古びた鉄扉がある。非常階段へつながる通用口のようで、横の壁には小さな社名プレートが貼られていた。
〈散英社〉
「……家ではありませんでしたねえ」
足元で、わくわくが元気よく跳ねる。
「わく!」
スマートフォンを取り出すと、日付はまだ変わっていない。冥府で散々走り回ったような気がするが、現世では夜がほんの少し進んだだけらしい。古畑は眉を寄せた。二十三時五十分を少し回ったところだった。
「なるほど。あちらで残業しても、こちらの残業時間には加算されないわけですか」
かつおの言葉が頭に残っている。自分の奥にいる誰かと、最も強く結びついた場所。どうして、それが散英社なのか。考えてみても答えは出ない。
そもそも、この出版社へは足を運んでいない。バッチョ・リーの事件も、部下が連絡をすることで、事件を解決に導いた。
古畑が社名プレートを眺めていると、わくわくが鉄扉へ鼻先を寄せた。扉は閉まっているように見えたが、押すとわずかに動く。急いで出た誰かがきちんと引かなかったのか、古いラッチが最後まで噛んでいない。
「勝手に入ると怒られそうなんですけどねえ」
「わくわく」
「あなたは止める気がない、と」
扉の向こうには人気のない非常階段が伸びていた。古畑は迷った末に一歩だけ入り、その一歩が二歩になり、気づけば編集部のある階まで来ていた。こんな時間なのに、廊下の奥から白い光が漏れている。
編集部では、モニターが一台だけついたままになっていた。椅子は斜めにずれ、机の脇には紙の束が落ちている。泥棒に荒らされたほどではない。それでも、仕事場の日常からほんの少しだけ外れた乱れ方だった。
「誰かいます?」
返事はない。
わくわくが床を嗅ぐように進み、資料室の前でぴたりと止まった。扉には鍵が掛かっている。古畑がノブを一度回している間に、白い身体が錠前へ寄った。
「待ってください。人の会社ですよ」
すりすり。
「聞いてませんね」
すりすり。
金属の錠前が薄くなり、最後には小さな欠片を残して床へ落ちた。便利さと犯罪性が常に同居している生き物である。
扉を開けると、段ボール箱の間に人が倒れていた。
「デン太郎君?」
昼間、バッチョ事件の現場で会った編集者だ。頭には大きなたんこぶができているものの、首元へ指を当てると脈はある。古畑はすぐ救急へ電話を入れ、それから所轄へ連絡した。
救急隊が到着するまでの間、デン太郎の身体にはなるべく触れなかった。ただ、右手だけが妙に固く握られている。拳の隙間から、赤いプラスチックのようなものが見えた。
「それ、無理に開かないでください。何か握ってます」
駆けつけた救急隊員へそう伝えると、古畑は資料室の外へ下がった。担架が廊下を通り、デン太郎の姿がエレベーターの向こうへ消えていく。昼間はあれほど軽口の多かった男が、一言も喋らないだけで編集部の静けさが妙に重く感じられた。
INQUIRY
所轄の刑事と鑑識が到着すると、古畑は邪魔にならない場所へ椅子を引いた。本人としては手を出さずに済ませたいところだったが、なぜか冥府から送り返された場所で事件にぶつかってしまった以上、知らないふりをするのも気持ちが悪い。
「正面玄関は二十二時で施錠。警備記録に異常なしです。ただ、非常階段側の古い通用口は、内側のラッチが甘くなってる。社員なら癖を知ってるでしょうね」
「ちなみ」と名乗る刑事が報告書を見ながら言った。初めて観る顔だ。ハキハキと快活な仕草で捜査をしている。しかし、古畑はどこか違和感を抱いていた。
「あの~、ちなみさん」
「どうしましたか、古畑さん」
「私、部下がいませんでしたかね? デコボココンビの、変な男たちです」
自分でも変な質問をしているのはわかっている。しかし、古畑は何かを忘れているような気がしていた。ちなみは、きょとんとした顔でこちらを見る。
「うーん、古畑さんは部下をとらない、孤高な一匹オオカミという噂を聞きます。最近でも、部下と行動したという話は聞かないですね」
「そうですか。いえ、そうですよね。失礼いたしました。」
我ながら、変なことを聞いたものだ。しかし、なぜかデコボココンビの変な部下たちの輪郭だけは、頭の隅でぼんやり浮かんでいる。しかし、今は事件だ。気持ちを切り替えて、先ほど自分が入ってきた扉に目を向け、ちなみに尋ねる。
「外から無理に壊した跡は?」
「ありません。建物を知っている人間が、普通に入った可能性が高いです」
「資料室は?」
「こちらも外から施錠されていました。鍵は編集部内で管理しています。犯人はデン太郎さんを殴ったあと、わざわざ中へ運んで隠したようです」
誰かを殴って逃げるだけなら、資料室へ運ぶ必要はない。発見を遅らせたかったのか、それとも、その間に別の作業をしたかったのか。古畑は資料室から編集部へ戻り、ついたままのモニターを眺めた。
「ちなみさん、散英社のシステム担当者を呼んでいただけますか」
ほどなくして、散英社のシステム担当者が現れた。画面を調べた結果、二十三時四十分台に共有フォルダから大量のファイルが削除され、ごみ箱まで空にされていることが分かった。さらに、その直前には外部記憶装置が接続された形跡も残っている。
「コピーしてから消した、と考えるのが自然でしょうね」
「消したかったのに、持って帰った?」
古畑が聞くと、担当者は首を傾げた。
「中身を手元には残したかったのかもしれません」
「人間というのは面倒ですねえ。見られたくない。でも自分は見たい」
削除されたデータそのものはすぐには戻らなかったが、サーバー側の履歴にフォルダ名と五つのファイル名が残っていた。
〈ザレゴト制作委員会〉
『狂気の編集者』
『あなたはダレ』
『カジノの守り神』
『地下帝国の教祖様』
『古畑任八郎最後の戦い』
古畑は五つの名前を、上からゆっくり読み直した。最初の四つは、説明されるまでもない。今日、自分が関わった事件そのものだった。そして五つ目。さすがの古畑も背筋に寒気が走る。
「私の名前が入ってますねえ」
ちなみが画面を覗き込み、「なんか、気味が悪いですね」と顔をしかめる。古畑は返事をしなかった。
かつおに言われた言葉が、脳裏をよぎる。自分の顔と、その奥にいる誰かが一致しない。そこへ今度は、自分の名前を冠する最終話である。今日はずいぶんと、自分のことを他人から教えられる日らしい。
それでも、目の前にあるのはデン太郎が襲われた事件だ。古畑は気持ちを切り替えるように画面から離れた。
「この五つを消した人は、中身を知られたくなかった。デン太郎君は、たまたまそれを見てしまったんでしょうねえ」
「では、口封じ?」
「殺すつもりだったかどうかは分かりません。わざわざ脈を確かめたかもしれないし、死んだと思って隠しただけかもしれない。そこは本人に聞きましょう」
「本人が分かれば、ですが」
古畑は何気なく、デン太郎の机を見た。昼間の事件で、彼はたけひさを何度も「先輩」と呼んでいた。学生時代からの付き合いで、同じ出版社へ入り、今も慕っている。だからといって、すぐ一人に決めつけるほど話は単純ではない。散英社には先輩などいくらでもいる。
その時、ちなみの携帯電話が鳴った。短いやり取りを終えると、彼は少し困った顔で古畑を見る。
「古畑さん。昼のバッチョ・リーさんの件で逮捕された編集者、たけひさって人、覚えてます?」
「ええ。忘れようとしていたところです」
「移送の途中で逃げてます。二十二時過ぎ。今も所在不明です」
DEDUCTION
古畑はしばらく黙った。そこでようやく、冥府で再会した顔が頭の中へ並ぶ。
団長、あかり、バッチョ、Iroha、ねこりあ、ゲンズ。
たけひさはいなかった。
「私は思い込みをしていたのかもしれませんねえ」
自分自身と同じように、彼らも古畑任犬郎に冥府へ引っ張られたのかと考えていた。しかし、バッチョとIroha、ねこりあに関しては、そもそも死んでいたため、任犬郎と無関係に、ごく自然に冥府へ行く運命だったのだ。
あかり、ゲンズは死んでいない。恐らく、目的を悟らせずに古畑を冥府へ連れていくため、任犬郎がカモフラージュのために連れて行ったのだろう。
つまり、たけひさがいなかったこと自体に、特別な意味はない。彼はただ、現世で逮捕され、そして逃げただけだ。
「なるほど」
「何か?」
「いえ。地獄というのは、留置場の代わりにはならないんだなと思いまして」
ちなみはきょとんとしている。何か聞こうとしているようだったが、その瞬間、彼女の電話に連絡が入った。デン太郎の入院している病院からだ。
デン太郎の命に別状はないようだ。彼は、右手に赤いペンのキャップを握っていたという。
スマートフォンへ送られてきた写真を拡大すると、キャップの側面に小さな三角形の傷が見える。古畑はしばらく眺めたあと、画面を閉じた。
「編集者というのは、赤いペンをよく使うものなのでしょうか?」
「校正じゃないですか? 赤字を入れる、なんて言いますし。珍しくはないかと」
「ですよねえ。つまり、編集者であるデン太郎くんが持っていることも、珍しくはないということですねえ」
珍しくない。だからこそ、今の段階では証拠として弱い。しかし古畑は、くすっと笑った。
「たけひささんへ連絡を取れます?」
「逃走中ですよ」
「ですから、こちらから追いかけるのは面倒です。向こうから来てもらいましょう」
古畑は所轄の刑事から連絡先を聞き、自分のスマートフォンで短い文章を打った。
〈デン太郎君は無事です。ザレゴト制作委員会のファイルも、いくつか復旧できました。少しお話ししませんか。古畑〉
送信してから、古畑はスマートフォンを伏せた。
「ちなみさん、あなたは病院へ行って、デン太郎くんの様子を見ていてください」
「え、なぜ」
「恐らく、近いうちに目を覚ますでしょう」
訝しげな表情で出ていくちなみを見送ると、古畑は椅子から立ち上がり、くるりとこちらへ向き直った。
INTERLUDE
えー、古畑任八郎です。
最後の事件だというのに、まだ犯人の顔を一度も見ておりません。こういうのも新鮮です。
ですが、顔がなくても、人が動けば跡は残ります。夜中の会社へ入れる人。デン太郎君を資料室へ隠せる人。そして、五つの企画書をどうしても消しておきたかった人。
現場には、犯人が落としたらしい小さな物も残っています。ただし、同じ物を持っている人はいくらでもいる。これだけでは弱い。
そこで、これから犯人本人に来てもらいます。私はまだ、昨夜のことを何も聞いていません。つまり、嘘をつくなら今からです。
大事なのは、間違った答えを言われても、すぐ直してあげないことです。本人が選んだ答えは、最後まで大切にして差し上げましょう。
それからもう一つ。事件とは別に、私自身にも妙な問題が残っています。顔は古畑任八郎なのに、中身が違うと言われました。失礼な話です。
まずは目の前の事件を片付けます。そのあとで、できれば片付けたくない方を考えます。
古畑任八郎でした。
ACCUSATION
送信から二十分ほど経った頃、編集部の古い通用口が軋んだ。
たけひさは、廊下の様子を確かめるように顔を出し、古畑を見つけると足を止めた。昼間に逮捕された時と同じ服装だが、ネクタイは外れ、顔には一日の疲れがそのまま残っている。
「古畑さん。デンは?」
「生きてます。しばらく病院ですが、命に別状はないそうです」
古畑の言葉にたけひさは目を閉じ、肩からゆっくり力を抜いた。その反応だけを見れば、後輩を心配する普通の先輩に見える。古畑は何も言わず、空いている椅子を勧めた。
「ファイルが戻ったって、本当ですか?」
「いくつか痕跡が残っていました。妙な名前ですねえ、ザレゴト制作委員会」
たけひさの目が一瞬だけモニターへ動く。すぐに古畑へ戻ったが、その一瞬で十分だった。
「その前に、昨夜のことを確認させてください。二十三時四十二分頃、こちらへ来ました?」
「来てません」
答えは早かった。
「昨日は警察から逃げたあと、ずっと一人でいました。散英社へ戻るなんて、そんな危ないことするわけないでしょう」
「なるほど。昨夜は一度もここへ来ていない」
「はい」
古畑は小さく頷き、それ以上追及しなかった。代わりに、机の上へ所轄が用意した簡単な確認書を置く。
「念のため、ここへお名前だけお願いします。今のお話を伺ったという確認です」
たけひさは一瞬ためらったものの、胸ポケットから赤い編集用ペンを取り出した。キャップがない。ノック式でもなく、先端がむき出しになっている。古畑は署名が終わるまで黙っていた。
「たけひささん。そのペン、キャップをなくしました?」
「え?」
「赤いペンです。ずいぶん乾きやすそうなので」
「どこかで落としたんでしょうね」
「いつ?」
「さあ。覚えてません」
「では、これかもしれません」
古畑はスマートフォンを開き、病院から送られてきた写真を見せた。透明な証拠袋の中に、赤いキャップが入っている。
「デン太郎君が握っていました。意識を失ったあとも、ずっと右手の中に」
「同じようなキャップはいくらでもあります」
「私もそう思います」
古畑はあっさり同意した。たけひさが少しだけ拍子抜けした顔をする。
「ただ、このキャップには側面に三角形の小さな傷があります。今お使いになったペンにも、同じ位置から続くような欠けがある。一本だった時についた傷でしょう」
古畑は机の上の赤いペンへ視線を落とした。
「デン太郎君は、襲われる直前に相手の胸元を掴んだんじゃないでしょうか。その時にキャップが外れ、手の中へ残った。昨夜ここへ来ていない人の持ち物が、どうしてデン太郎君の手にあったんでしょう」
「……前に貸したことがあるかもしれない」
「いいですねえ」
「何がです?」
「ちゃんと次の答えを用意してくださる」
たけひさの表情が硬くなる。古畑はそのまま、モニターに残されたフォルダ履歴を開いた。
「犯人は、デン太郎君を殴っただけではありません。共有フォルダから〈ザレゴト制作委員会〉を外部の記憶装置へコピーし、そのあと削除しています。ごみ箱まで空にした。デン太郎君を資料室へ隠したのも、作業を終える時間が欲しかったからでしょう」
「私には関係ありません」
「そうでしょうか。中に何が入っていたのか、気になりません?」
「……何が?」
「企画書がいくつかあったようです。残念ながら、まだ全てを読んではおりません。最後まで読めたら、私も今夜もう少し楽しめたんですが」
「最終話なんて、読まない方がいいですよ。ネタバレをお望みですか」
古畑は何も言わず、椅子の背へ身体を預けた。しばらくして、首を傾げる。
「最終話?」
「五つあるなら、最後のやつでしょう。『最後の戦い』ってタイトルなんだし」
「五つ? 私、ファイルがいくつあるかなんて申し上げてません。ましてや五つ目が最終話だとも、題名すらお伝えしていませんよ」
たけひさは黙った。
「あなたは知っていたんです。あのフォルダの中には五つのファイルがあり、その五つ目のファイルが『最後の戦い』というタイトルであることを。えー、先ほど私は『まだ全てを読んではおりません』とお伝えしましたが、正しくは『全てを読むことができなかった』です。なぜなら、『最後の戦い』だけは未完成だったから。あなたは、それを知っていた」
「ウソつきですね」
「それはお互い様でしょう~。えー、そのファイル。誰かに見られたら困る内容だったんですね。だから夜中にここへ戻った。しかし、デン太郎君が先に見つけてしまい、読んでいるところへ出くわした。止めようとして揉み合いになり、この文鎮で殴ったということです~。んっふっふ~」
「それは想像でしょう」
「ええ。ですから、最初にあなたから頂いた答えが必要なんです」
古畑はたけひさの署名が入った紙を指先で軽く叩いた。
「昨夜は一度も散英社へ来ていない。そうおっしゃいました。ところが、あなたのペンのキャップがデン太郎君の手にある。そして、あなたは見ていないはずの企画書を知っている。二つとも、昨夜ここへ来たと考えれば簡単に説明できます」
長い沈黙のあと、たけひさは椅子から立ち上がるでもなく、背もたれへ深く沈んだ。
「……本当に、嫌な人ですね」
「よく言われます」
「デンは、死んでないんですよね」
「ええ」
たけひさはそれをもう一度確かめるように頷いた。犯行が露見したことより、そちらの方に安堵しているようだった。
「私です。あいつを殴りました」
UNMASKING
「なぜ、あのフォルダを消したかったんです?」
「逃げたあと、社用のアカウントを確認したんです。見覚えのない共有フォルダが増えていた。最初のファイルを開いたら、バッチョ先生を私が投げたことが書いてあった」
古畑は黙って続きを促した。
「二つ目には病院。三つ目はカジノ。四つ目には、私が知らない地下帝国のことまで書いてあった。ニュースにもなってない、知るはずのない出来事です。それだけでも十分気味が悪かった。でも、五つ目はもっとおかしかった」
「何が?」
「開くたびに文章が増えるんですよ。少し先のことまで書かれる。私が夜中に編集部へ戻ることも、そこでデンが読んでいることも、文鎮を手に取ることまで」
「まるで預言書ですね」
「気になるでしょう。自分でも馬鹿だなと思いますが、本当にデンがいるのか見に来てしまったんです」
たけひさは首を振った。
「驚いたことに、デンは本当に企画書を読んでいた。私は、止めなければならないと感じた。それで、あいつが言うことを聞かなくて……私が殴った。企画書の通りにするまいと思っていたのに、わかっていたのに、まるで結果に吸い寄せられるように彼を殴ったんです」
古畑はしばらくたけひさを見たあと、静かに頷いた。
「なるほど、まるで企画書に操られていたかのような」
「言い訳にもならない話だと思っています。けれど、どうしても抗えなかったんです」
たけひさは乾いた笑いを漏らし、上着の内側から黒いUSBを取り出した。
「消したデータのコピーです。どうせ見つかるなら、古畑さんに渡します」
古畑はすぐには手を出さなかった。
「その後、内容は増えていましたか」
「ええ、目に焼き付いて離れない一行が」
「伺ってもよろしいでしょうか」
たけひさの視線が、古畑の足元へ移る。わくわくは何も知らない顔で、自分の尻尾を追いかけていた。
「古畑任八郎の顔は、本物ではない」
かつおの声が、古畑の頭の中で重なった。顔は古畑任八郎でも、その奥にいる人間が違う。
「今日、同じような失礼を二回言われました」
「確かめたくないんですか?」
「まったく」
古畑が一歩下がると、たけひさはUSBを机へ置いた。その動きが妙に素直だったので、古畑の注意が一瞬そちらへ向く。
次の瞬間、たけひさが足元のわくわくを抱き上げた。
「ちょっと!」
「古畑さん。あなたはずっと、人の嘘を剥がしてきたんでしょう」
「だからって人の顔を剥がす必要はありません!」
たけひさは、わくわくの丸い身体を、古畑の顔面に押し付けた。
すりすり。
「痛い痛い痛い! 何してるんですか!」
古畑は逃れようとしたが、わくわくは遊びだと思ったのか、むしろ嬉しそうに身体を寄せてくる。
すりすり。
黒い髪や眉が削れているのではない。もっと薄い何かが、皮膚の表面から剥がれていく。表情の癖、声の響き、立ち姿。古畑任八郎という人物を形づくっていたものが、目に見えない膜になって一枚ずつ落ちていくようだった。
「やめてくださいよぉ……やめてええええ!」
最後の一言だけ、いつもの古畑の声ではなかった。
わくわくが離れる。
編集部に静けさが戻り、男は自分の頬へ恐る恐る触れた。そこにあったのは、さっきまでの古畑任八郎の顔ではない。
「いたたたた……」
たけひさが息を呑む。
「企画書に書いてあった通りだ」
一方、顔を削られた男は、たけひさの顔を見て「おっ」と呟いた。
「タケヒサック。もしかして俺、今、顔削られてた?」
「はい、削られていました」
「あー。それじゃ、そろそろエンドロールかな」
「企画書によれば、ここで私は、こう言うらしいですね」
たけひさは、企画書を覗き込んでいる。
「〈おかえりなさい、どてらいさん〉」
台詞を発した瞬間、たけひさは全ての記憶を取り戻した。本人照合、完了だ。
CURTAIN CALL
「こういうことだったんですね」
「俺の企画書も、捨てたもんじゃないだろう?」
どてらいは、いたずらっぽく微笑んだ。
「おっし、企画書通りだと、次はデンが来るかな」
どてらいが言った瞬間、編集部の扉から「いやー、病院って待ち時間長いですね~」と、頭に大きなたんこぶを作ったデン太郎が入って来た。
「エナメル質にたんこぶができるって、変な話ですね」
「まあ、クローンとか冥府とか出てくる作品だったから、デンの設定が普通寄りになっちゃったよね」
すると、デスクの上で踊っていたわくわくが、突如デン太郎へ飛びついた。
「え、ちょ、何ですか! この生き物!」
すりすり。
デン太郎の顔から、薄い膜のような何かが剥がれていく。
「いたたたた……。あれ? みなさんお揃いで」
「わく!」
「師匠、なに喋れないふりしてるんですか」
編集部が静まり返る。わくわくは「わく」と鳴こうとして、途中でやめた。観念したように小さく息を吐く。
「……最後まで押し通せると思ったんだけどなー」
「ええ! どこから戻ってたんですか?」
「ふふふ、内緒です」
「こわーい」
どてらいは、いつも通りわちゃわちゃ騒いでいる三人の様子を目を細めて眺めながら、椅子に腰かけた。モニターには、まだ企画書が映っている。
どうやら、それぞれが帰るべき場所に帰ったことによって、追記は止まったようだった。
しかし、最後の一行が残っている。物書きとしては、なんだか気持ちが悪い。
少し考えたあと、どてらいはキーボードを叩いた。
〈また会う日まで、ごきげんよう。古畑任八郎でした。〉
end credits
cast
古畑任八郎 どてらい | 負け犬変態紳士M | 日本漠然研究学会記録官
しが泉ない太郎: しがない@ 世の中は不条理である
ピートン寺: ピートン☀️子育て研究員
ゲンズ: ゲンズ|AIと猫で、つくる人。
古畑任犬郎: かつお / . ___
第一話 狂気の編集者
たけひさ たけひさ|コンセプトマーケティング
バッチョ・リー: ばっちょ🖋️73冊目執筆中
ゆきの: ゆきの|本と日常を綴る物書き
もりた毬太:もりた毬太|漫画家
第二話 あなたはダレ
Margin_Archive: Margin_Archive
Iroha: Iroha
くろあん: くろあん
第三話 カジノの守り神
あかり: 赤髪のあかり noteで楽しく生きる
ねこりあ: ねこりあ❁tarot❁Nekolia
第四話 地下帝国の教祖様
しらす: しらす|ひとり妄想作家
ゆかりっく: ゆかりっく Yukarik|成熟カルチャー研究室
わくわく: わくわく わたし、かわいいよね!
てるまに: てるまに
第五話 古畑任八郎最後の戦い
古畑任八郎: どてらい | 負け犬変態紳士M | 日本漠然研究学会記録官
たけひさ: たけひさ|コンセプトマーケティング
デン太郎: デン太郎🦷食と歴史と経済と
わくわく: わくわく わたし、かわいいよね!
ちなみ: ちなみ🐥|書を綴る道。









どてらいさん、おかえりなさーい!
お疲れ様でした!
ラストまですっごく面白かったです✨
どてらいさん
執筆お疲れ様でした。☺️
面白かったですよ。
3話が特に好きでした。😆
大先生の次回作楽しみにしてますね。